第1回 ブランデンブルグ門


画像No.1 画像No.2

画像No.1……門の裏側(西ベルリン側)からの画像
画像No.2……門の表側(東ベルリン側)からの画像


<ブランデンブルグ門とは?>

「1791年にプロイセン王国国王、フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世により建造され、第2次世界大戦後の東西冷戦下に西ベルリンと東ベルリンの境界であるベルリンの壁と隣接していた門で、東西ドイツ分断と統一の象徴とされています。」

 ブランデンブルグ門とはプロイセン王国の凱旋門として、1788年にフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世が建設を命令し、1791年に完成した門です。ギリシャはアテネ、アクロポリスの城門を模して建てられており、上部からは勝利の戦車と女神ビクトリアの像が見おろしています。
 そして時は流れ1945年。第二次世界大戦が終結し敗戦国となったドイツは米・英・仏が西側半分とベルリン西部を、ソ連が東側半分とベルリン東部を統治しました。しかし、東西冷戦が深刻化していくにつれて西側と東側の間に意見の相違が生じ、1948年3月ソ連が連合国管理理事会を脱退しました。そして通貨改革の決行に関して意見が完全に別れてしまい、西側はソ連統治地区を除いた3ヶ国統治区域で独自の通貨改革を行いました。これに激怒したソ連が1948年6月、西ベルリンへ通じる道路・鉄道・水路を全て封鎖し電力と石炭の供給を完全に停止しました。これが有名なベルリン封鎖であり、西側諸国は西ベルリン200万人の市民に混乱を起こさせないために、毎日1500機近くの輸送機を利用し石炭や日用品を輸送しました。この後、1949年5月に西ベルリンに対する封鎖は解除されましたが、東西ドイツ分裂の気運は高まってしまい、1949年5月8日に西ドイツ憲法制定会議はドイツ連邦共和国---西ドイツの建国を決定しました。これに対し、1949年10月7日ドイツ民主共和国---東ドイツが建国され1989年11月19日のベルリンの壁崩壊、1990年10月3日の東西ドイツ統一までのドイツは国家分断の歴史を歩みはじめました。
 こうしてドイツに2つの国が成立しましたが、東ドイツから西ドイツへと国境を越えて脱出しようとする市民が続出したため東ドイツ政府は1961年8月に東西ベルリンの境界に2枚の壁を建造しました。これがベルリンの壁で、ブランデンブルグ門の西側すぐ前を通って建造されました。
 上の画像に壁は当然ありませんが、広場がある方を前とするならば、門の裏が西ベルリン、広場側が東ベルリンという位置関係です。門のすぐ裏側を壁が通っていました。そして壁崩壊の1989年11月9日までの28年間、2枚の壁の間に挟まれたこの門をくぐる人は1人としていませんでした。

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